村木厚子『私は負けない 「郵便不正事件」はこうして作られた』(中央公論新社、2013年)

書評

官公庁を舞台にした事件でも、贈収賄などではなく、証明書発行にかかわる比較的小さな事件です。それにもかかわらず、なぜ検察はそこまでの労力を掛けて村木さんを取り調べたのか。仮に村木さんが自ら認めて証明書を発行していたとしても、それが検察を労力を掛けたほどの大事件とは思えない。村木さんを落としたとして、その狙いは何だったのか、よく分かりません。

検察は、キャリア官僚を調べ上げ有罪に持っていけば、自らの存在意義を世間にアピールできるとでも思ったのでしょうか。たぶん、そんな類の功名心狙いのものであったことは想像に難くありません。始めから、ストーリーありきの取調べ。酷い話しです。

以下、本文で注目した記述。

p.93「このやり取りを聞いていて、検察というのは、「本当はどうだったのか」ということには何の関心もないのだな、と感じました。それより、自分たちの冒頭陳述を守ることに全力を傾ける。途中で新しいことが分かっても、自分たちのストーリーと違えば、一切無視して、自分たちの物語だけを守っていく。つまり、真実はどうあれ、裁判で勝つことだけが大事というのが彼らの行動原理だと、よく分かりました。」検察の本心はまさにこれでしょう。

p.167「以前は、検事というのは悪いことは絶対にしない正義の人と思っていました。でも、今回のことを経験して、検事もやっぱり組織の一員で、組織の事情、組織の方針が大事なんだな、と思いました。それに検察って、一度方針が決まったら、後戻りしないんですね。なぜなんでしょう。間違ったら、引き返せばいいじゃないですか。なのに、引き返そうとする人はいないんですかね。僕はもっと柔軟な組織かと思っていたんですが…。」これがいわゆる官僚の無謬性というものですね。

p.205「ブツを改竄するというのは聞いたことがないが、一般論として、言ってもいないことをPS(調書)にすることはよくある。証拠を作り上げたり、もみ消したりするという点では同じ。」だから、冤罪が発生するのだと思います。

p.206「少なからぬ検事が証拠改竄の事実を知り、有罪の確信を持てない検事もいたのに、検察側は素知らぬ顔で裁判を受け、村木氏に懲役一年六月を求刑した。最後まで、村木氏を犯罪者として刑務所に送ることに固執した。唯一の救いは、組織の自浄能力に見切りを付けて、新聞記者に情報をもたらした検事がいる、ということくらいだ。」漏らした検事に一縷の望みを抱くことができます。

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