山崎豊子『運命の人』(文春文庫、2010年12月)

書評

今年2月に新聞社会面で元毎日新聞記者の西山太吉さんが91歳で亡くなったという訃報記事に接しました。西山さんは、沖縄返還における日米政府での密約を報道したことで有名な方です。この西山さんがその後、裁判に巻き込まれたことを素材にして書き起こされたのがこの本です。

密約報道のことは何となく知っていたのですが、訃報記事の中で西山さんが密約の秘密漏洩事件により2審で敗訴、その後国賠訴訟で同じく2審で実質敗訴したということを知り、『運命の人』を読みたくなって読みました。第1から第4巻まで、約1か月かかりました。

手っ取り早くいうと、西山さんが被告となったのは、取材方法と知る権利が天秤に掛けられ、国民の知る権利のためならば、新聞記者に「情を通じた」取材が許容されるかどうかが争点となった裁判でした。

国家が主権者である国民に対して知らせるべきことを知らせないことは由々しきことで、その代役を新聞記者が務める要素が強いならば、一定の深いところまでの取材は、方法論が問題となりますが、許容されるべきだと思うのが私の考えです。

山崎豊子作品はこれまでに、『沈まぬ太陽』、『不毛地帯』の2作を読んだことはありますが、今回の『運命の人』を読み終えて新たに思ったのは、一人の男の人生のロマン、悲哀、無念を描く作家で右に出る人はいないのではないのではないか、ということです。新聞記者出身だけに、作品のもとにするネタは徹底的に取材しており、作品中に登場する土地には必ず自ら足を運んでいます。

第1巻から第3巻まではほぼ事実に立脚して脚色していると思われますが、第4巻の沖縄編は、第3巻までとは異色で、著者自身による創作の色が強いようです。本巻シリーズを読む前、まさか、沖縄決戦の話しまで読むことになるとはまったく想像していませんでした。かつて、映画「激動の昭和史 沖縄決戦」を見ていたことがあり、ある程度の知識を得ていたことが読み進める上で役立ちました。主人公のモデルが本当に沖縄に移り住んだかどうかは分かりません。

『運命の人』を読んで感じたこと。それは、国家は嘘を付くということ、国家は自らに都合の悪いことは絶対に言わないということ、太平洋戦争末期に沖縄で繰り広げられた地上戦が壮絶であったこと、現在の沖縄はその歴史ゆえに苦悩の状況にあるということ、です。

主人公モデルの西山さんが亡くなった今、外務省事務官のモデルとなった蓮見さんという女性が存命しているのだろうかと気になります。

以下は、各巻ごとに読みながら思想したことやメモしておきたいことです。

【第1巻】
○日米における大使の相違
日本の駐米大使が、外務省事務方トップの事務次官を辞めた後に行き付くポストであるということについて、これはもう完全に日本がアメリカの属国であることを示すような証拠です。他の国でこのような例はあるのでしょうか。また、日本の駐米大使が外務官僚であるのに対して、米国の駐日大使が政治家であることの違いがあります。これはどういうことなのでしょうか。

○新聞・マスコミの今昔
新聞が第4の権力と言われていた時代がありました。主人公もその第4の権力の側にいたことになります。新聞・マスコミ側も権力を有していたので、政治家の方から顔馴染みの新聞記者に対して、盆暮れに30万円、10万円の現金やワイシャツ仕立て券が渡されていたような時代があったそうです。しかし現代においてこれだけSNSが発展している世の中、新聞の役割は、かつてと大きく様変わりしています。新聞の販売部数自体が大きく落ち込んでいる中、今でも盆暮れの贈りが行われているのでしょうか。今や新聞を読んでいるのは、高齢者世帯の方が多く、若い人が購読しているようなことは極めて稀のようです。。かつて、新聞社は自らの論調を紙面に掲載することにより世論を誘導するようなことがありましたが、今や新聞・マスコミにそのような力は昔ほどは及ぼし難くなっているでしょう。

○新聞記者の傲慢さ
 この本の主人公のようなやり手でないと、新聞記者は務まらなかったかもしれません。しかし、その傲慢さも社会常識から外れると、嫌悪の対象です。私はかつて、破綻した会社の社長による記者会見にメモ取りのため臨んだことがありました。そのとき、驚いたことに、60代の社長に向かって30代前半の新聞記者が物凄く偉そうにタメ口でその破綻の責任を追求している場面がありました。あたかも、自分は世間を代表していることを鼻に掛けたような言い振りでした。そのやり取りを聞いていた私は、あなたは何様のおつもりですかと、心中思ったものです。
 上記のことは、第3巻に登場する裁判の場面でいみじくも検事側が次のように述べています。「報道機関の取材対応なら、何でも許されると考えるのは、誰にも批判されることのないメディアの人間の非常識さで、例外などあるはずがありません。」
何が許されるのか、難しいところです。破綻会見で社長を糾弾するような取材は人間的にどうかと思いますが、西山さんのような「情を通じた」取材は、いわば私人間の合意に基づくやり取りであり、私は認められてもよかったのではないかと考えます。

【第2巻】
○政府の嘘
政府が嘘を付かない、というのはまやかしです。官僚の無謬性と通じるところがあります。森友事件で財務省の佐川局長が文書改竄を指示したことは、状況証拠から明らかなのに、これを否定し続けていることなどはその典型例です。
西山事件で最高裁が西山さんからの上告を棄却したのも、いわば政府が一体となって密約を否定し続けるためとさえ考えられます。

【第3巻】
○日韓国交回復
読売新聞社の渡辺恒雄氏が若い記者当時、政府に先駆けて日韓国交回復のお膳立てをしていたとは初めて知りました。2月か3月頃、読売新聞朝刊が紙面を数ページ割いて、5枚か6枚か、韓国大統領の顔写真を大きく掲載していた理由がこれで分かった気がします。

【第4巻】
○沖縄での地上戦
 1945年4月1日、米軍が沖縄上陸に投入した人数は18万3,000名。この人数に驚きます。
○戦艦大和の沈没
 戦艦大和が沈没したのは、1945年4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖で米軍航空隊386機もの戦闘機により波状攻撃を受けたことによるものであったという事実。こちらも戦闘機の数の凄さを感じます。
○復元補償費400万ドルの最終的な行方
 見かけ上米国政府が支払う軍用地復元補償費400万ドルについて、実際は日本政府が肩代わり負担することが密約でした。このことは、琉球大学教授が米国公文書館から発見したファイルから事実であったことが明らかになっています。問題は160万ドルまで支払先のリストが分かっているそうなのですが、残り240万ドル分の支払先が不明である、というのはいかがなものかと思います。
○日本の歪み
 著者は主人公に次のとおり言わせていますが、まさにそのとおりと思います。
「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないのだ。」

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