日本を愛し、日本を世界に紹介してくれた功労者の自伝である。東日本大震災で日本人が心痛に沈んでいるときに、わが心は日本人とともにあるという信念のもと、米国から移住して日本国籍を取得したキーンさんが子供の頃から80歳過ぎぐらいまでの人生を語ってくれている。日本に興味を持ったきっかけがニューヨークの書店で見つけた『源氏物語』だそうであることからしても、私たち日本人はこのような古典を持つことを大変に誇らしく思っていいだろう。
以下は、自伝で取り上げられている各叙述に関連したメモ事項である。
○オーストラリア陸軍博物館
若いときに訪ねたことが回想されている。現代日本語訳は、ウィーン軍事史博物館である。第一次世界大戦のきっかけとなった展示物があるそうであり、興味深い。
○サントリーウィスキー山崎
飲み心地がとてもいいサントリーウィスキー山崎。本を読んでいるときに、サントリーの佐治社長の話しが出てきて、ウィスキー「山崎」が京都に近い場所の地名に由来していることを初めて知った。正確には、大阪府と京都府の府境で大阪府側。
○日本人の不思議さ
キーンさんは、終戦から4か月経った日本での生活を回想している。日本にとって敵国の国民だったキーンさんが日本の床屋を訪ねて若い女性理容師から理髪してもらっているとき、機会を窺ってカミソリで切り付けることが可能であったのにそのようなことはしないこと、また若い日本人女性がアメリカ兵と駅で別れを惜しんでいる光景に遭遇したこと、これらをとても不思議がる。どうすれば、人間の気持ちがこんなにも早く切り替わるのだろうかと。この感情は理解できる。ある意味で、日本人の移ろい易さを象徴しているのかもしれない。
○日本人ノーベル文学賞初受賞をきっかけとした話し
川端康成が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞したのは1968年。当時、文学界でもう一人、名を馳せていた人物が言わずと知れた三島由紀夫である。三島が市ヶ谷で割腹自殺したのが1970年で45歳のとき。その2年後の1972年、今度は川端がガス自殺を図った。川端康成のノーベル文学賞受賞が三島と川端を殺したと大岡昇平が述べたと、本には書いてある。痛ましい。
○朝日新聞客員編集委員
キーンさんは、朝日新聞の客員編集委員を1982年から1992年まで務めていたそう。この当時の朝日新聞は今よりもだいぶまともだったろう。インテリぶっている人は、朝日を読んでいることを自慢げに語っていたものである。同社カメラマンがサンゴ礁に自分のイニシャルを掘って傷つけたのが1989年。また、同社が従軍慰安婦に関する捏造記事を掲載したのが1991年。キーンさんが客員編集委員として勤めていた最後の年の方は、朝日新聞社の堕落が始まっていた頃となる。
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